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函館家庭裁判所 昭和60年(家)390号 審判

申立人 大和田剛

事件本人 大和田真子

主文

事件本人について、北海道瀬棚郡○○町字○○×××番地大和田清一戸籍中、大和田真子昭和18年11月1日生の身分事項欄の死亡事項を消除し、同人の戸籍記載を回復することを許可する。

理由

第1申立ての実情

1  申立人は、昭和17年8月13日父大和田強、母房代間の長男として中華民国河北省清苑県○○○○○××号で出生した。父は昭和20年7月1日河南省彰徳県付近にて戦死し、母は昭和22年10月21日山西省太原市○○○○○○××番地において病死した。その後、妹真子は中国人に引き取られていつたが、妹と別れた日のことは覚えているものの、引き取つていつた相手方の氏名等はわからない。当時私は5歳、真子は4歳だつたので詳しいことはわからない。妹の現在の中国名は王正英です。

2  私は、昭和23年に大崎という日本人と帰国したが、幼い私には当時のことは何にも覚えていない。伯父の大和田清一が真子の死亡届出をしたことはわからなかつた。

3  昭和59年2月、中国残留孤児の日本訪問の一行の中に、中国名王正英を妹真子と確認することができた。現在妹真子は戸籍上死亡したことになつているので、これを正しく訂正したいため、この申立てをした。

第2当裁判所の判断

1  記録によると、次の事実が認められる。

(1)  申立人は、昭和17年8月13日父大和田強(大正4年3月6日生)と母房代(大正5年10月27日生)の長男として中華民国河北省清苑県○○○○○××号で出生し、昭和23年ころ中国から引場げ、同44年7月7日宮口敏子と婚姻し、その間に4女をもうけ、現在現住所で有限会社○○自動車商会を設立し自営している。その血液型はA型である。

事件本人真子は、同じく長女として昭和18年11月1日河北省石門市(現在・石家荘)○○○××号の×で出生したが、戸籍上「昭和21年2月1日午前1時30分、河北省石門市○○○××号××番地で死亡、同居の親族大和田清一届出昭和23年3月16日受附除籍」となつている。

(2)  申立人の父強は、昭和13年ころ軍隊に入隊して中国大陸に出征し、同15年山西省楡次で除隊、翌16年○○交通株式会社に就職して沿線警備に従事していたが、同年12月17日中山房代と婚姻し、申立人及び真子をもうけた。同20年6月ころ申立人の父は、石門(石家荘)・太原間の鉄道改軌工事後の付随改修工事請負のため会社を退職し、上司・同僚らと土建業を始めたものの1週間くらいして召集され、入隊後10日くらいした後、戦死公報によれば昭和20年7月1日河南省彰徳県○○○附近にて戦死した。

(3)  ところで、申立人父の右入隊当時における住所については、申立人の記憶が不明瞭であるが、上村利正作成の照会回答書(2通)によると、同人は昭和20年3月ころ河北省張家口市所在の○○○○部隊○旅団司令部配属の陸軍兵長で軍鳩係をしていた者であるが、同市内太平公園で鳩訓練中幼児との会話がきつかけとなり、その親の住居が司令部に近い○○○街(張家口市○○○街××号と記憶するという。)にあつた関係から、鳩訓練の帰隊途中に2回程同家に立ち寄り、同人方が大和田強(当時数え年29歳くらい)、妻房代(同28歳くらい)、剛(同4歳くらい)、真子(同3歳くらい)の4人家族で、大和田強は当時○○交通の職員であると聞いていたこと、同年5月中・下旬ころ、軍鳩訓練の途次張家口駅で偶然大和田一家と出逢い、その際大和田強が現地召集により山西省大同の○○警備隊編成の要員として入隊するところであり、階級は陸軍上等兵であつたということ及び同年6月中旬ころ、大同の軍鳩育成隊に行つた際○○警備隊に立ち寄つたところ、大和田は既に転属していたというのである。又当家庭裁判所調査官作成の三島大雲の供述書(写真添付)によると、同人は○○○町×××番地○○○宗常念寺の住職であるが、同寺保管の大和田強の遺骨箱包装の白布に貼付されている紙ラベル中に「独立歩兵第○○大隊本、陸・伍、河南省彰徳県○○○附近、昭20.7.1死亡」の旨記載されていることが認められる。以上の事実によれば、申立人父は昭和20年5~6月ころ現地召集により入隊し、同年7月1日戦死したこと及びその当時申立人らは張家口市内に居住していたものと認めることができる。

(4)  申立人母は、戦後間もなく申立人(当時3歳くらい)及び真子(当時1歳10月くらい)を連れ帰国しようとしたものと推認される。河田明広、村山明(昭和60年10月21日付)及び前記上村利正の各照会回答書によると、当時張家口市付近の一般民間残留邦人の引揚げは、張家口・北京間の鉄道を利用し、昭和20年8月21~23日の張家口駅発が最終便とされ、以後右鉄道も不通となり、又他の鉄道路線(大同、太原経由)は中国内戦等のため利用できない情況であつた。申立人母らはそのころ引揚げることができず張家口市内に残留中、九州出身の日本人大崎とくじ(申立人らによると、徳二)に保護され、同居するようになり、右同居中、申立人母は昭和22年10月21日張家口市内の大崎方において病死した。除籍謄本によると、前記のとおり申立人母は、「山西省太原市○○○○○○××番地で死亡」したと記載されているが、既述のところから右死亡場所は正しくない。おそらく国内居住で申立人母と同居したことのない伯父大和田清一が、届出の必要上何らかの資料(届出原本等は保存期間満了で廃棄済のため不明)により事実不明なまま適宜な場所を選択して届出書に記載したものと推認される。

(5)  ところで、事件本人については、前記のように昭和21年2月1日死亡の旨届出がなされているうえ、前記三島大雲の供述書によれば、常念寺保管の遺骨箱を包む白布(イ)には「昭和二十一年、法名釈尼真證童女、俗名大和田真子、享年二才」と、又遺骨箱内に遺骨とともに入つていた白布(ロ)には「昭和廿年十月十日、俗名大和田真子、妙真童女(その上に寺印の朱印判押捺)」と墨書(北海道警察本部刑事部科学捜査研究所長作成名義の「検査書の送付について」と題する書面によると、「妙真童女」の「童」字は「孩」字と重複記載と推定され、その上下は判然としないと鑑定されているが、外観上「孩」字上に「童」字を重ね書きしたものと判断される。又、寺院判は解読困難である。)されているところ、申立人によれば、右遺骨は申立人母と大崎との間に生れた正枝又は久枝と命名された子で、生後間もなく死亡したものであり、申立人は、申立人母の絞つた母乳を飲まされた記憶もあるというのである。

まず、白布(イ)の戒名等は常念寺住職三島大雲記載のもので、申立人は異父妹の遺骨と思いつつも一応黙認していたため記載されたもので、死亡年度や年齢を話したかどうかは記憶していないというのである。白布(ロ)の存在については申立人が看過していたというのであるが、遺骨箱の移動・保管の経緯、白布の汚損度、戒名が本願寺系のものでなく禅宗系のものであるのに申立人らにはその事情等が一切不明であること及び死亡年月日が明記されていることと非常混乱時以外考えられない戒名部分の誤字の重ね書きなどから、中国内所在の寺院で作られたものとも思われ、そうだとすると、事件本人の死亡を証明する有力な資料となるが、その事情を知ることができない。のみならず、右の死亡年月日は申立人の記憶とは全くかけ離れている時期であつて、その死亡時期については釈然としないものがある。

ところで、医師○○○○作成の鑑定書によれば、前記遺骨箱内の骨の全量は約20グラム、骨片及び歯牙(片)の形態から人の火葬骨と考えられ、性別は不明であるが死亡時年齢は、縫合を有する頭蓋骨骨片等の形態から幅広くは生後4か月ないし1年、狭くは生後6か月ないし8か月くらいと推定され、死因及び血液型は不明という。なお原形とどめぬ小骨片多数があつて、これが別人(1人とも複数人とも断定できない。)あるいは動物の可能性も否定できないというのであつて、その鑑定結果によると、右遺骨は、当時ほぼ2歳に近い事件本人のものとは認め難く、戸籍上の死亡年月日を採れば更に不合理となり、又いずれの死亡年月日を採つても申立人母と大崎間の子のものとは認め難いことになる。

(6)  そこで、申立人審問の結果等によつて、申立人と事件本人との生別事情をみると、昭和22年秋ころ、申立人母が女児出産後健康を回復せず病臥の折、申立人を枕許に呼び「もうお母さんは日本へ帰れないから大崎の言うことをよくきいて連れて行つてもらうように」と言われ、その前後ころ、申立人は、大崎と申立人母とで「長男を連れて行つた方がよい」と話し合つているのを聞いていたが、その後間もなく事件本人が家に来た中国人女性らに連れて行かれるのを見て申立人は後を追おうとしたものの大崎に押えられ、事件本人と生別したというのである。

右の事情については最も知悉する大崎の消息(本籍・住所・生死・家族等)が不明なうえ、後記のように王正英の養母もその引取事情につき完黙しているため、申立人の供述以外には直接判断し得る資料がない。ところで、申立人は、大崎に伴われ引揚船で九州の港に上陸し、暫らく大崎方で世話になつた後、昭和23年3、4月ころ大崎に連れられ、申立人母方実家である栃木県黒磯市の中山たきじ(昭和57年8月4日死亡)方に父母らの遺骨とともに引き渡されたものであるが、たきじの娘中山安子(大正15年6月23日生)は、当時大崎(60歳くらいにみえたという。)から、申立人母は産後の肥立ちが悪く腹膜炎を起こして死亡したこと及び小さな遺骨箱については「子供さんのとか妹さんのものです」とか聞いていたことが認められる。右事実に申立人が帰国に際し「大崎剛」と称していたこと、常念寺で取り替えた申立人母の遺骨箱の旧白布に「俗名大崎房代」と記載されていたこと及び申立人が事件本人と生別したことを忘れられず、結婚以降妻の協力のもとに本格的に事件本人の消息を探し始めていたことなどを合わせ考えると、申立人らが中国において大崎に保護されて生活していたこと、その間申立人母は、大崎との間の子であるかどうかはさておき女児を分娩し、産後の肥立ちが悪く死亡したことが認められるので、右事実にかんがみると、申立人の述べるところは十分に信用することができるものというべきである。そうすると、右女児が正枝又は久枝と命名され生後間もなく死亡したこと(申立人は、前記のように、申立人母が絞つた母乳を飲まされた旨述べているが、このことも右事実を裏付けるものといえる。)及び申立人が事件本人と生別したことも事実と認めるのが相当である。したがつて、前記俗名大和田真子の遺骨なるものは、事件本人のものではなく、正枝又は久枝のものと認めるのが合理的である。

(7)  次に、申立人が事件本人真子であるという王正英についてみるに、「1976.7.30おしらせ、張家口○○○の会」誌(写)、厚生省援護局業務第1課長作成名義の「戸籍訂正事件について(回答)」添付の昭和59年2月27日第5回訪日孤児面接調査票及び王正英から申立人宛手紙(訳文付)等によると、王正英は、養父王子華(昭和31年78歳で死亡)、養母郭玉清(無職、69歳)、夫は田功(俳優、42歳)、夫との間に18歳と14歳の男子2人をもうけており、もと夫と同じ古典劇団所属の俳優であつたが、現在は河北省張家口地区○○○○局に勤務している者で、血液型はAB型である。王正英の生年月日は、登録によると、1941年(昭和16年)11月21日生となつているが、その届出年月日が不明であるため、その正否も不明である。王正英は、少女時代は中国人と思つていたところ、11歳時(昭和27年)ころ所属劇団の先生らから日本人の子と聞かされて以来日本人としての自覚をもつようになり、その後25、6歳のころ養母の妹方で、推定3歳くらいの着物姿の幼女の写真(撮影時期・場所不明)を見て、それが自分であることを教えられ、養母らにいろいろ事情を尋ねたが、養母が日本人の子であることだけは認めたものの、それ以上実親や養女とした事情等については話してくれず、問い詰めると怒り激しく泣く状態のうえ、養母の同朋(叔母ら)も同様の態度で、中国の地方公安局係官の聞取調査にも応じない情況のため、その身上経歴等は全く不明である。しかし、中国の地方公安局は、その調査結果(内容不明)から王正英が日本人の子であることを認めており、前記訪日についても張家口公安局外事課からの通知によつたもので(なお、王正英は養母に対し公務出張と称し実際の目的を隠して訪日している。)、孤児証明書は発行されていないものの、以上の事実から王正英が日本人を両親とした子であることは認めるに足りると考える。ただ王正英の記憶では、終戦時張家口市に居住していたこと以外は、その家族構成、生活史及び家族との生別事情等につき深い印象といつたものはなく、他から聞いた情報で思い浮べる印象もあいまいで、かつ、申立人の話と符合する事柄も皆無である。

(8)  そこで、申立人の事件本人に関する調査についてみると、申立人は、前記のように事件本人と生別したことが忘れられず、昭和44年結婚以後妻の協力のもとに本格的に探し始め、まず大崎の消息につき中山方への問合わせや厚生省、NHK、北海道新聞社等に照会し捜してみたものの知ることができず、その他の手掛りもつかめないでいた。昭和58年7月申立人妻が○○○町役場で王正英3歳ころの写真を見て、申立人夫婦間の長女の幼いころとよく似ていたことから夫婦相談のうえ、妻が厚生省に赴きその資料の提供を求め、前記「張家口○○○の会」誌を渡され、更に同会の協力会員加藤文平を紹介されたので、引き続き加藤方を尋ね、同人に申立人作成の中国居住当時の記憶による市街の略図(説明入り)を見せたところ、張家口の市街図であるといわれ、その説明や参考事項等を妻から聞いた結果、申立人は生別地を張家口市と信じたこと、更に申立人は、常念寺保管の「俗名大和田真子」の遺骨につき、住職から乳呑子の骨で歩くようになつている幼児のものではないと言われ、異父妹のものと信じていたことが裏付けされたものと確信したこと、昭和59年2月27日訪日の王正英と面接し、相互の容貌・体格の酷似から互いに一目で相手がわかり、かつ、1週間一緒に過してみて外貌のみならず互いの性格や皮膚の荒れ性等も酷似していることなどを知り、更に帰国後の王正英との文通により相互に肉親としての心情も醸成し、王正英が事件本人であることを強く確信しており、又、申立人の親族一同も王正英と接し一致して申立人同様の確信を持つに至つている。

2  以上の諸事情を総合して考察すると、本件では事件本人に関し直接間接事情を知る国内での重要関係者が所在不明ないし死亡し、又王正英の養母らが完黙の情況であるため事実の解明が困難、かつ、不十分であるが、しかし、申立人と事件本人との生別地点と王正英の住所地が一致していること、事件本人と王正英とはその生年月日に若干の差異があるが、王正英については養父母の届出年月日が不明であるため、養女とした当時直ちに届出したものか、その成長をみてから後になつて届出したものか、その生年月日等を正確に聞いていたものか、そうでなく便宜な生年月日を届出し登録したものかなどの問題があり、その正確性には疑問があるので、右差異を重大視することは相当でなく、むしろ年齢的にもほぼ符合するとみてよいと考えられること、申立人と王正英との容貌・身体的・性格的酷似性、申立人の長女と王正英の幼女時代の容貌等もまた似ていること、申立人と王正英はもとより、申立人の親族一同も一致して王正英を事件本人と認め、かつ、確信していること(本件では血液型による判定ができない。)などによれば、王正英が事件本人と同一人物である蓋然性はかなり高く、未解明な点を考慮してもその同一性を認めるのが相当と思料され、かつ、王正英の生存も明らかであるから、本件申立ては理由があり認容すべきものというべきである。

よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 高山政一)

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